【2024年7月 大阪ひとり旅】その2 いざ大阪へ/靭公園、薩摩堀公園、道頓堀

2024年7月中旬、夏の大阪にひとり旅してきました。その記録です。

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大阪、たくさんの人たち。自分もその中に混ざって歩く。

最初は地下鉄がどんなふうに走っているのかよくわからなくて迷うけど、だんだん理解してきました。

阿波座駅にやってきました。ここからまずはホテルに荷物を預けて、靭(ウツボ)公園へ。

道路を挟んで東側と西側に分かれているのですね。きれいな長方形です。

猛暑だったので、緑がたくさんの公園はホッとできます。

大塩平八郎の終焉の地だとは知りませんでした。

靱公園のあった場所は、かつては靱塩干魚市場があった場所。1945年の大阪大空襲で焼け野原になり、戦後は占領軍の飛行場になったとのこと。その後大阪市に変換され、公園になるときに東西の区画になったようです。飛行場として使われていたとわかって、細々区画が分かれている大阪市内において、きちんとした大きな細長い長方形に整地されている理由が理解できた気がする。

かつての靱塩干魚市場の跡地にあたる。海部堀川1951年埋立)沿いの靱塩干魚市場は干物や肥料にする干鰯などの海産物を全国から集めていたが、1931年大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖され、1945年大阪大空襲で一帯は焼け野原となった。(Wikipedia)

父方の祖母や曽祖母は戦前にどうもこのあたりに住んでいたようで、戦争中に住んでいた家は焼けてなくなったのだとわかりました。大阪大空襲の少し前に関東圏に疎開し、父は幼かったのでほとんど疎開後の記憶しかなく、疎開後に住んだ関東圏がふるさとと考えている。父が大阪生まれで、祖母やその祖先は全くの大阪人。自分も大阪人の何かしらを引き継いでいるのかなあと思うと、少し不思議な感じがする。

次は少し南に行って、薩摩堀公園。

今回、大阪の地名などを調べていて初めて知ったのが、大阪には江戸時代、たくさんの堀川があって、そこを船が行き来していたということ。天然の川ではなく、船を通すために川を作っていき、おそらくその土を積み上げて整地していったようです。

公園の中にはこのようなものもありました。

近くには廣教小学校跡の記念碑がありました。ここも大阪大空襲で焼けてしまったようです。

この辺りは、祖父が商売をしていた場所の近くになるようです。関東圏から大阪にやってきて、自分の店を持つまでになったのに、戦争で何もかも無くしてしまって、どんなにか無念だったろうと思います。

今回自分の目で見て、自分の足で立ってみたかったところは行けたので、訪ねてきた甲斐がありました。

夕方にお知り合いに会いに行くまでの時間で、暑い中、道頓堀を目指して歩くことに。

大汗かきながら道頓堀に着いたのですが、土曜日の午後だったためものすごい混雑。お好み焼きやたこ焼きを道頓堀で食べたかったのですが、くたびれてしまって並ぶ気力が残ってない。

新大阪駅なら、座れる場所があるかもと思い、なんば駅から地下鉄乗車。たこ焼道楽わなかさんで空いている席発見!

汗も引いて空腹も満たし、このあと知り合いにご挨拶に伺って、かなり遅い時間に阿波座駅に戻ってきました。

ホテルはルートイン。大浴場があって、1日の汗と疲れを癒すことができました。

つづく。。

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